五月、その日の中間試験は芳しく無かった。
		 絶えず工業車の行き交う街中に紛れて立つ小さなビルから出てきた広岸は、自分の両手を眺めた。
		 無駄な肉が削げ落ち、関節の部分だけが膨れ上がった、細くて長い指。
		 この指でやることは何一つうまくいかない、と広岸は思った。
	   ビルから歩いて十分ほどの場所に、広岸の家はある。
		 暑い日だった。うららかな春は終わり、これからは暑い夏になっていくばかりだ。
		 そんなことにすら、広岸は腹が立ってきた。
		 砂埃を立てて走り去る大型トラックを、横目で睨む。
		 ―――あんまり指ばっかり鳴らしてると、関節太くなっちゃうよ。
		 そう言われてから四年間、広岸は指の関節を鳴らす癖を治そうとしなかった。
		 十子の忠告を信じていなかったわけではないが、鳴らすたびに頬を膨らます十子の顔が見たかったからかもしれない。
	   晩の支度をする母の背中に、広岸は呟くように言った。
		「母さん、俺もうピアノやめるわ」
		 母は驚いてエプロンで手を拭き、振り返った。
		「どうして? 前はあんなに一生懸命やってたじゃない」
		 前は、とか、一生懸命、とか。聞きたくも無い単語ばかりだった。
		「つーか、受験とか、あるし」
		 半分は嘘だった。
		「そう、仕方ないわね。先生にはもう連絡したの?」
		 連絡の必要は無い。ついさっき、追い出されてきたばかりなのだ。
	   街中にある古い三階建てのビルの最上階はちょっとした防音室になっていて、現役ピアニストの先生が仕事の合間を縫ってピアノ教室を開いている。
		 広岸は物心つく前からピアノを習っていて、その教室ができてからはそこへ通うようになった。プロが教えてくれるから、とかいう理由で中々の評判だったのだ。
		 いい先生についた方が上達する、と言ったのは母だったか。中学を卒業する頃には、初見の曲でもそれらしく弾けるようになっていた。
		 ピアノを弾くことに、何の疑問も感じたことはなかった。それが当たり前だったから。実際、飲み込みが早いほうなのか、よく褒められてはいたし、それが練習の動機になっていたという部分もある。
		 だが高校に入って、広岸は練習を殆どしなくなった。
	   長年続けていたものが、今日、あっけなく終わった。
		 荷が下りたという感じではない。自分を形作っていた要素がすっぽり消えてしまったようだった。
		 広岸は胸に風穴が開いたような虚しさを感じていた。
		 ―――もう、あなたに教えることは何も無いわ。
		(糞ッ)
		 先生のあの目を思い出し、広岸はリビングのピアノを母に気付かれないように程度に蹴った。
	   中間試験はまだ三日も残っている。
		 明日の教科は、一夜漬けをすればなんとかなる自信はあったが、ベッドに突っ伏してむしゃくしゃしている広岸は、それを行動に移す気分にはなれなかった。
		(中間試験が終わったら次は何だ? 模試か? 補習か? 定期試験はいつだ? 夏休みは? 夏期講習があるのか?)
		 高校を卒業するまでにクリアしなければならない試験の数を数えるたび、鬱々とした気持ちが積もっていった。
		(くだらねえ、何もかもが)
		広岸は天井に向かって枕を投げたが、手元が狂って蛍光灯に当たり、埃と枕とが顔面に落ちてきた。
	   携帯が振動して、机の上で音を立てている。広岸はベッドから手を伸ばし、携帯を手にとった。
		『メールが届きました』
		 メールは幸からだった。
		『今日も暑かったねー(^^;A)さっき扇風機出してきちゃったよ。まだ気が早いかな…ヒロ君は今何してるの?』
		 広岸はようやく体を起こし、メールを打ち始めた。
	   次の日、試験は惨憺たる結果に終わった。
		 試験が終わっても広岸は机に突っ伏したまま、答案が回収されて行くのをぼんやりと眺めていた。
		 試験。
		 思えば中学校の頃の試験では、テスト週間の二週間前から毎日勉強していたし、提出物を欠かしたことはなかった。
		 おかげで成績はいつも上位だったし、難関とされるこの高校にも入ることはできた。
		 高校に受かる日を夢見て、勉強がどんなに辛くても必死で乗り越えてきた。
		 心の奥で、合格の向こう側には何かがあることを信じていたのかもしれない。
		 しかし、受かってしまったら、何もなかった。
		(色んなものが次々と終わって、そのたびに俺には何もなくなっていく)
	   広岸は十子のことを思い出していた。
		 あの頃、広岸がどんなに勉強しても、十子には一度も勝てなかった。
		 中学二年のあの時までは。
		(白紙に近い答案を出すのにも心が痛まなくなったのは、いつからだろうか)
		 正午を過ぎ、教室に残っているのが一人だけになっても、広岸は席から動こうとはしなかった。
		(あの時お前もこんな気持ちだったのか? 十子―――)
	  「なんだお前、まだ残ってたの」
		 教室に入ってきたのは夏雄だった。
		 何をするでもなく、だらしなく机にもたれかかっている広岸を見て、夏雄は自分の机の鞄に荷物を詰めながら言う。
		「それにしても、キレーな答案だったなお前」
		 そう言って夏雄は思い出したようにくすくすと笑った。
		「あー? じゃあおめーはどうなんだよ」
		 広岸のつっかかるような質問に対し、夏雄はきっぱりと、
		「安心しろ、俺もだ」
		 とだけ言って親指を立てた。
		 鞄を背負った夏雄は広岸の机まで寄って来て、机の足をつま先で軽く小突く。
		「おいこら、早く帰るべ」
		 ため息をひとつつき、広岸は重々しく立ち上がった。
	   広岸は立ち上がり際、思い出したようにポケット越しの携帯に手を当てた。
		(あ―――試験前に携帯切ったままだった)
		 電源を入れる。メールが二通届いていた。二通とも、幸からだった。
		『おっはよー! 今日も試験頑張ってね♪ あたしは来週からだからそろそろ勉強しないとね…(^^;』
		『やっとお昼休みだ〜ヒロ君はそろそろ終わったかな? 終わったらメールしてね!』
		 心の中に、なにか暖かいものが広がっていく感覚を、確かに覚えた。
		 幸。
		 今週末も、幸に会う。