いやな、夢を見た。
		 誰もいない、絶望の中で、声を枯らせて、ただ叫ぶ夢。
		 ―――始めなければ、終わることなんてなかったのに。
		 確かに、そうだ。
		 あれ以来、本当に、何も始められなくなってしまった。
		 何かが終わるのが、どうしようもなく、恐いから。
		 しかしその気持ちとは裏腹に、さっきまで手に持っていたはずのいろんなものが、次々と終わっていく。
		 十子と別れ、その意義を見出せなくなった、勉強。
		 からっぽになってしまった自分を見限られ、破門された、ピアノ。
		(後は、俺に何が残ってるんだろう。まだ何かあるのなら、いっそ―――)
	   ―――広岸がしたいようにしていてくれるのが、私には、一番のしあわせだよ。
		(しあわせ、か。ごめんな、十子。俺はちっとも、やりたいようにやれてねえよ。おまえと別れてから、なにがしたいのか、分からなくなってしまった)
	  「はっはっは。そんなこと言ったのか。すげー女だな」
		「笑い事じゃねえよ」
		 バイトの控え室で、その日の仕事を終えた夏雄と広岸は、缶ビール片手に、同じソファに座って意味もなく騒がしいテレビを眺めていた。
		 時計の針は夜の十時を指している。
		 たまにはビールでも飲もうぜ、と言い出したのは夏雄のほうだったが、仕事の疲れもあってか、広岸もそう思っていた。
		 他愛もない話はすぐに尽き、どちらともなく黙り始めると、自然と話題は、恋愛の話になっていた。
		 酔いと疲れの混じった不思議な気分の中、広岸の言葉を通じて、十子との思い出の形が再現されていく。
		 あの時の気持ちを表すには、言葉という道具は不十分だ、と、口の余り達者でない広岸は思った。
		 しかし夏雄はそのひとつひとつを、丁寧に聴きとっていた。
		 そのことが広岸はいくぶん気持ちよく、詰まりながらも、あの時のことを語った。
	   十子のことを誰かに話したのは初めてだった。
		 一度口を開けば、もう止まらなかった。
		 治りかけの傷口のように、少しの刺激で、血はきりがなく流れ出すのだ。
	  「相手のしあわせが自分のしあわせ、ってか。その状況で中々言えた台詞ではないよな」
		「ああ……」
		(おかげで俺はあれから五年間、あの言葉の呪縛に縛られてきた。まるで一種の呪いのように)
		「その十子って娘のこと、幸ちゃんには話したのか?」
		「いや、言ってない」
		 でも幸は話して欲しがっていることに、広岸は気付いていた。広岸の、今までの恋愛について。
		 幸はきっと、知らないほうがいい。知らないほうが、うまくやっていける。
		「そっか……。まあお前のことだから、顔に出ないようにせいぜい気を付けることだな」
		「顔に?」
		「気付いてなかったのか? お前は考え事をしてる時いつも、いかにも一人で悩みを抱えてます、みたいな顔をしてるぜ」
		 そんなこと、まるで気が付かなかった。自分が主観人間であることを改めて思い知らされた気がした。
		 広岸は、
		「……大丈夫、あいつはそんなに勘のいい女じゃないよ」
		 と自分に言い聞かせるように言った。
		(十子と違って……か)
		 十子はとても勘の働く女だった。
		 別れを告げる前から、すでに広岸の気持ちの変化に気付いていたと言っていた。
		 あのときも、俺はそんな顔をしていたんだろうか、と広岸は思った。
		 すると、そんな広岸の顔を覗き込み、夏雄は、
		「お前、無理してるんじゃねえのか?」
		 と怪訝な顔をして言った。
		「なんだよ、無理って」
		「幸ちゃんとの事だよ。無理に、好きになろうとしてるんじゃないのか? 十子って娘を忘れるために」
		 心臓が、大きく打った。でもそれは違う。もしくは、違うと思わなければいけないのか。
		 幸は幸として、愛している。それが幸に対しての、精一杯の誠意だった。
		「無理なんて、してるつもりはない。好きだよ、あいつのことは」
		「そうか。……いや、むしろ、無理してるのは俺のほうかもな」
		「うまくいってねえのか?」
		 広岸が問うと、夏雄は少しだけさみしそうに笑った。
		「ああ、まあ、そんなとこだ。もう……時間の問題だろうな」
		(夏雄にもうまくいかないことだってあるんだな―――)
		 夏雄がそんな顔をするのを、広岸は初めて見た。恋愛というのは、何でも卒なくこなす夏雄ですらも手におえない代物なのか、と広岸は思った。
	   参ったよ、といった表情を浮かべて夏雄は、
		「わかんねえよな、女って」
		 とぼやき、
		「……同感だ」
		 と、広岸は、実感を込めて答えた。
	   十二時ごろ、二人のバイトの先輩である平野が突然控え室に現れた。
		「おい野郎ども、ラーメン食いに行くぞ」
		 二人は呆気にとられたが、とうに空けてしまった缶をゴミ箱に放り込んで、平野の車のある駐車場へと向かった。
		「どうして突然ラーメンなんすか……それもこんな時間に」
		 と夏雄が問うと、平野は言った。
		「だって食いたくなったんだからしゃーねえだろ。一人で行くのもなんだから、誰かいるだろうと思ってあそこに寄ったんだよ」
		 深夜の静まり返った田舎道に、軽四の軽いエンジン音が響き渡る。
	   平野は、広岸たちより四つ年上、つまり大学四年生の好青年で、こんな風に行動はいつも突拍子もなく、周りをいつも驚かせているが、その誰にもとらわれない自由な振る舞いに、広岸は少なからず憧れていた。
	   田んぼの風景を抜け、ぼちぼちと建物や寝静まった街らしき景色が見えてきた頃、平野は言った。
		「あ、途中で連れを一人拾うけど、よろしく」
		(連れ? 誰だろう―――)
	   奇妙なことに、連れというのは、平野の元彼女であった。
	  「なんか、さっきからハンドルが妙に左に寄るんですけどー」
		「あーなにそれなにそれ。あたしが重いって言いたいワケ?」
		「わかってんなら痩せろ! このデブ!」
		「んだとコラ! ふん、ねえ聞いてよ、こいつ高一んときの体育祭でさー」
		「わー! 黙ってろオマエ! 右カーブの遠心力で車から落すぞ!」
		「うっさい死ね! ギャーギャー!」
		 二人の会話は終始そんな調子で、後部座席の広岸たちは腹をかかえて笑っていた。
	   どうしてこうなってしまったのか、よく分からなかったが、出発から三十分後、広岸、夏雄、平野、平野の元彼女という奇妙な取り合わせが、一つのテーブルを囲んでいた。
		 ラーメンは美味しかった。
	  「君達、高校生だよね。いつもこいつから話は聞いてるよ。いいなー若いナー……」
		 リコと名乗った元彼女は、ラーメンをすする広岸たちを見つめ、呟いた。
		「気を付けろよ、広岸。とって食われるぞ」
		「てめえ……あたしゃ化け物か」
		 わなわなと握りこぶしを振るわせるリコ。
		「まったく、どうしてこんな奴と付き合ってたんだろうねーあたしは」
		「ほんとだよ。ほんのデキゴコロ? 若気の至りってやつ? ははは」
	   二人は自分達が付き合っていた当時の話題を、平気で懐かしむように、面白おかしく語り合った。
		 広岸たちは、本来デリケートなはずのそのテーマに、踏み込んでいい境界線が分からず、苦笑いにも似た笑いを浮かべるしかなかった。
	   平野とリコの二人は、高校時代の二年間を、ともに過ごしたと言っていた。
		 広岸は考える。
		 この二人はいったいどういう風に出会い、どんな風に好きになり、どんな付き合いをし、どういう場所でどのような愛を語り、どんなキスを、またセックスをし、そして―――どんな別れを迎えたのだろうか。
		 あるいは、教えて欲しかった。
		 一体どんな付き合いをすれば、互いに好き合っていたことをこうして笑いあうことができる? 辛いはずの別れを、恋愛の矛盾を、どんな解釈で語り合うことができる?
	   平野がトイレ、と言って席を立ったとき、平野の姿が見えなくなるのを確かめてリコは言った。
		「はあ。あんな奴でも、昔は好きだったんだよ。あいつは昔から変わってない。周りはいつもあいつに振り回されたけど、結果的にいつもいい方向に向かうんだよね。あんな何にも考えてない顔してるけどね、本当はすごく色々考えてるんだよ、あいつ。今日の事だって、こんなことで元気付けられちゃうんだよね、あたし。またあいつの思うつぼだ。はあ……なんかやだな、あたしだけ歳とってくみたいで」
		 リコは平野の前では見せなかった、寂しげな笑みをうかべた。
	   勘定は平野のおごりだった。車に乗り、リコを拾った駅で降ろすと、平野は言った。
		「悪かったな、変な奴もいっしょで。あいつこないだ受けた入社試験、うまくできなかったらしくてさ、あんまり落ち込んでて見てらんねえんだよ。あいつの彼氏は腑甲斐ねえし、俺が気ぃ遣っててやんないと潰れちまうからよ、あいつ」
		 懐かしさと、誠実さのこめられた口調だった。
	   事務所の近くで降ろされ、広岸たちは原付の停めてある駐輪場まで歩いた。
		「なんかいいよな、あの二人」
		 広岸がなんとなく言うと、
		「でもなかなか、ああいう風にはなれないんだよな」
		 と、夏雄はなんだか寂しそうに呟いた。
		「……そうだな」
		(もし俺が十子と再会することがあったら、俺達も、あんな風になれるのかな)
		 広岸は思い、同時に、くだらない、ありえない考えだ、と、すこし辛くなった。
	   家に着いた頃には三時を過ぎていた。
		 煙草と汗のにおいの染み付いたシャツを脱ぎ捨て、ベッドに寝転がる。
		 メール、六件。すべて、幸から。
		 午後七時十三分。
		『こんばんわ! 幸だよ〜。やっと明日会えるね。一週間って長いよ……(T-T)』
		 午後七時三十二分。
		『今バイト中だよね? お仕事頑張ってください☆』
		 午後十時九分。
		『そろそろバイト終わるよね。終わったらメールして欲しいな(^^)』
		 午後十一時五十八分。
		『何してるの? お仕事長引いてるのかな?』
		 午前零時三十分。
		『寂しいよ……』
		 午前二時十一分。
		『馬鹿』
		 液晶に映し出された“馬鹿”の二文字が、普段の幸には考えられない、あまりに冷酷で絶望的な響きを持っていたので、広岸はぞっとした。
		 同時に、こんなにも長い間、ただ待ちつづけていた幸の姿を想像し、非道いことをしてしまったな、と後悔した。
		 広岸が詫びのメールを返すや否や、幸から電話が掛かってきた。
		 驚いた。まだ起きていたのか。
	  「ごめん、出かけてたんだ」
		「ばか」
		「……」
		「馬鹿、バカ、バカ」
		「幸……?」
		「ヒロ君のバカ!! どんだけ心配したと思ってるの?」
		「ごめん」
		「……どこか遠くへ、行っちゃったかと思ったよ」
		 その声は、確かに涙声だった。
		「寂しいよ、ヒロ君。会いたいよ」
		(幸―――)
		 俺の隣に、十子はもういない。
		 それでも、俺を頼りに生きているひとがいる。
		 俺はそれに、精一杯応えよう。
		 それが、十子にできる、唯一の償いなのだから。