「それにしても……」
 ぐるっと部屋を見渡すユカ。
「荷物運んでから、何もしてなかったわけ?」
 部屋はもちろん、未開封のダンボールばかり。
「ああ……、まあ、明日やろうと思って」
「そんなこと言って、どうせあたしが来るまで何もしないくせに」
 恥ずかしながら、反論できなかった。
「なにこれ、やたらかたいわねこのガムテープ……」
 ぶつぶつ言いながら荷物をあけていく。
「いいって。もう遅いから明日にしようぜ」
「布団出さないと寝れないでしょ」
「俺は畳でも寝られるぞ」
「じゃああんたは畳で寝てよ。あたしは布団敷くから」
「そんなあ……」
 布団はすぐに見つけ出され、てきぱきと畳の上に敷かれていく。
 一枚の布団で、ユカと久々に寄り添い合って寝た。
 起きたころには、布団の中にユカの感触はなかった。
 寝ぼけまなこを擦りながら体を起こす。
「やっと起きた」
 昨日とは違う服を着たユカが呆れ顔で見下ろしている。
 ちゃっかり着替えまで持ってきていたらしい。
「ああ、おはよ……」
「おはよう。それより、大変なことになってるわよ」
 深刻な顔つき。
「大変って、なにが」
「この部屋のことよ。あたし、先に目が覚めたからこの部屋をいろいろ調べてみたの。
 そしたら、分かったの。おかしいのは、水道と電気だけじゃない。
 まず、シャワーを浴びるにはガスの元栓をひねらないといけない。
 シャワーの栓をひねると、トイレの水が流れるの。あ、これは『大』の方ね。
 『小』の方を流すには、玄関にある照明のスイッチ。
 えっと……まだいろいろあるけど、分かったことはこれにメモしておいたから、頑張って覚えてね」
「はあ……?」
 手渡された紙切れを見たが、寝起きの頭には何がなんだかさっぱり分からなかった。
「あと、もうひとつ。これは凄く大事なことなんだけど……」
「……まだあるのかよ」
 ユカは玄関に立つ。
 昨日と同じようにドアノブを握って、ひねる。
 やはり、流し台の水が流れ始める。
 そのこととは無関係に、ユカはドアノブを握ったまま押しつづけた。
 しかし。
「開かないのよ。ドア。あたしたち、閉じ込められちゃったみたい」
   *
 布団から起き上がり、僕は着替えを済ませる。
 僕が寝ている間に、荷物はすべて片付いていた。
 あれだけあったダンボールも、綺麗にたたまれ、まとめてある。
 服や食器も、もう今日からでも普通の生活が出来るように、きちんとそれぞれの場所に収納されていた。
「あ、ユカ、歯ブラシは?」
「洗面所に置いてあるわよ」
 ユカの言ったとおり、洗面所には、僕の使い慣れたコップと、歯ブラシが置いてあった。
 さりげなくユカの分まで。
 コップに水を入れようと、洗面台の蛇口をひねる。
 水は出た。
 ただし、浴槽から。
 仕方がないので、洗面所と繋がっている風呂場に入り、浴槽の蛇口から出る水で歯を磨いた。
 畳の部屋では、ユカがテレビを眺めていた。
 ニュース番組だ。
「なあ、ユカ」
「ん?」
 ユカはテレビの方を向いたまま返事をした。
「腹減ったな」
「うん。あたしも」
「ユカ……」
「あのね、あたしなりに考えてみたんだけど」
 リモコンでテレビのスイッチを消し、僕の目を見る。
「おかしいのは、元々この部屋にあったものだけ。今みたいに、外から持ってきたテレビとかは、普通に動くみたいなの。
 で、物事にはすべて『原因』と『結果』ってのがあって、これ、因果律って言うんだけどね、
 例えば、『蛇口をひねる』という行動が原因となって、『水が出る』という結果を招く。これが本来あるべき姿なんだけど、この部屋では、その因果関係がずれちゃってるのよ。
 で、問題なのは……」
 僕はすかさず言う。
「この部屋をどうやって出るか、だろ? それにしても、ドアが開かないんなら、なんでユカは入ってこれたんだろう」
「そこなの。あたしが思うに、多分ドアが壊れてるわけじゃない。
 因果律の歪みは、この部屋の中という空間だけで起こってて、外側は全く正常なんだと思う。
 だから、あのドアを開けるのにも、水道や電気と同じように、他の『原因』が必要なのよ」
「ああ、なんとなく分かってきたぞ。ということは、『原因』になりそうな行動を片っ端からやれば、いつかはドアが開くかもしれない」
「まあ、それもそうなんだけど……。その方法はいかにもあんたらしいっていうか……確実性に欠けるのよね」
 僕はすこしむっとする。
「じゃあどうすんだよ」
「簡単なことよ。ドアは外からしか開かない。でも、それを逆手にとると、『外からならドアは開く』のよ。だったら、『外から開ければいい』じゃない」
 我に策あり、といった表情でユカは言った。
「誰かを呼び出して開けてもらえばいい、っていうわけか……。確かにそうだけど……でも、ここは圏外だろ? 携帯が使えないんなら、どうやってその『誰か』を呼び出せばいいんだ?」
「……本当はこんなことしたくないんだけどね。まあしょうがないよね、緊急時だし」
   *
 ―――がんがんがんがん
 この光景はいったい、どう表現していいものだろうか。
 ―――がんがんがんがん
「だれかいませんかあー?」
「困ってマース! 来てくださーい!」
 日曜の白昼、部屋の壁をたたいて叫ぶ、健全な若い男女二名。
「おかしいわね……。日曜日なんだから、だれか一人くらいいてもいいと思うんだけど……」
「まだだ。まだ諦めないぞ」
 ―――がんがんがんがん
 何度も何度も壁を叩く。
 両の拳に鈍い痛みがしみていく。
 越してきたばかりでまだ隣室に挨拶も済ませてないのにこんなことをしてて、おかしな人だと思われたらどうしよう。むしろ挨拶に来てない奴なんか助けてやるもんかとか思われてて、そのせいで誰も来ないんだったらどうしよう。
 この恥ずかしい行為もすこし慣れてきて、どうでもいいような思考がうずまきはじめる。
 それでも僕は叫ぶ。こうなったらあの不動産屋に文句を言うまで気が済まない。
「誰かー! たすけてー! つーか助けろ!」
「ねえ」
 話しかけるユカをよそに、僕はなりふりかまわず叫ぶ。もうヤケだった。
「たすけてー! 大変です! 大変です! 人が倒れてますー! さつじんです!」
「嘘をつくなっ」
 ボカ。
 殴られた。
「ねえ、なんか変だと思わない?」
「そうだな……。全然反応が返ってこない」
「それもそうなんだけど―――」
 ―――どんっ
 ユカは突然、壁を叩いた。何事か、と僕は思った。
「ほら、変なのよ。『音』が。この壁の向こうには部屋があるはずなのに、まるでコンクリートの固まりを叩いてるみたいに、音が響かないのはおかしいと思わない?」
「そう言われてみれば」
 ―――こつっ
 僕は軽く、壁を小突いてみた。確かにユカの言うとおりに、音が響いていない。
 こんなにボロっちいアパートなのに、この手応えは『頑丈なコンクリートの壁』といったところだ。
 もちろんこの壁はコンクリートなんかではなく、この建物のボロさを引き立てる、今にも崩れそうな土壁だった。
 しかし、さっきから随分と力を込めて叩いていたはずなのに、崩れる気配が全く感じられないのは、なぜなんだろう。
「そうか―――なるほどね。ひとつだけ、分かったことがある」
 僕が言うと、ユカは期待のまなざしでこちらを見つめた。
「え? なに?」
「このアパート、こう見えて……『意外と丈夫』だ」
 ユカの表情が、ゆっくりと枯れていくのが分かった。
「じょ、冗談だよ。本当に、ひとつ分かったんだ。『多分』って感じなんだけど―――『因果』だよ。さっきユカが言ってた、『因果関係』がズレてしまってるんだ。『壁を叩く』っていう行為に結びついてた本来の結果は『叩く音が外に漏れる』だったはずなんだけど。
 でもその関係が崩れてしまってるんだとすると、『壁を叩く=音が響く』にはならないんだ」
 ふうん、とユカはうなずく。
「なによ、あんただってちゃんと考えてんじゃない。ちょっと見直したわ。確かにその可能性が強いわね。
 でも、その通りだとしたら―――状況的にはより追い込まれた形になるよね……あたしたち。これは思ってたより、かなりマズいかも」
「……さっき、僕たちは壁を叩いたよな。それでも、『何も起こらなかった』。これはおかしいと思うんだ。
 ドアノブは水道の蛇口に、水道の蛇口は電気のスイッチになってた。どんなものにだって原因はあるし、どんなものだって何かの原因になりうるんだよ。因果関係がどこかで途切れることはないんだ。原因行為のポテンシャルがこの部屋に吸収されちゃったわけじゃなくて、必ず―――なにか保存則みたいなものが働いてて―――『何かの結果に結びついてる』と思うんだ」
「うん、あたしも同じようなことを考えてた。壁を叩いたとき、何も起こらなかったんじゃなくて、『あたしたちが気づいてない何かが起こってるはず』なのよね」
「探してみるか。起こった『結果』を―――」
 僕たちは黙った。ユカは壁に身をもたせかけ、腕を組んで考えている。僕もユカにつられ、腕を組んで、いろいろ考えてみた。
 それでも出てくる考えは、もう丸一日以上何も入れていない胃袋を満たす方法や、不動産屋に対する文句とか、そんなことばかりだった。僕たちは一体いつ出られるんだろうか。早くしないと、あと数週間で学校が始まってしまう。入学式だって出ないといけないし……いや、その前に、食料のないこの部屋に、一体いつまでいられるだろうか―――。
 早くあの『ドア』が開いてくれれば、全てが解決するんだ。『ドア』を開ける方法を、『ドア』の開く『原因』を探さないと―――。
「―――!」
 はっと、僕たちは同時に目を合わせた。
「ねえ、まさか」
「……どうだろうな……」
「じゃあ、『せーの』で一緒に見ようよ」
 僕はうなずいた。心臓が高鳴り始めた。不思議な、むずがゆい緊張が走った。
「せーのっ」
 僕とユカは振り向いて―――同時に『ドア』を見た。
 ドアは、閉まっていた。
「さすがに、そんなにうまくいくわけないか」
 ユカはため息をついた。
 僕の心臓は、まだ余韻で鳴りっぱなしだった。
 まったく―――どうしたものか。
 ドアは、僕らの視線をよそに、物言わず佇んでいた。