今日は十日目だったが、もう日付には大した意味がなかった。あと幾日か経てば僕も、今は風呂場で眠るユカのように死んでいくのだろう。だけどもう僕には、それすらも、どうでもいいことだった。
	    僕は何の気もなくテレビをつけた。
		 やはりそれも、意味のある行動ではなかった。僕はもうテレビの映像を理解するほど頭が回らなかったし、音もうまく聞き取ることができなかった。
	    日の落ちた暗い部屋で、明かりもつけずに、画面を流れていく眩しい虹色の光を眺めていた。
		 そして、そのときだった。何分か、何時間かの虚ろな時間の末、僕の心臓に、落雷のような爆発がおこった。その瞬間、錆び付いていた脳の回路に、絶縁破壊を起こしながらけたたましい思考が駆けめぐり、僕は、その発想に戦慄をおぼえるばかりで、しばらく息ひとつできなかった。
	   
		 『テレビ』―――どうしてこの部屋で『テレビ』が見られるんだ?
		 『音』も、『空気』さえも閉ざされたこの部屋で、なぜ『テレビ』を見ることができる?
	    この部屋で自由にできるのは、『水』と『ガス』、そして、もうひとつあったのだ。
	   
		 それは―――『電気』だ。
		 『電流』だけは、閉じこめられていた僕たちをよそに、この部屋と外とを、自由に出入りしているのだ。
	    同じように外から入ってくることを許されている『水』や『ガス』では、こうはいかない。『電気』だけだ。『電気』じゃなくてはならないのだ。
	   
		 もし、『ブレーカー』を落とすことができたら?
	    もしそのブレーカーが、アパートの各部屋で共有している、『共同ブレーカー』だったとしたら?
	    この部屋の中に許容量を超えた電流を流し入れることができたなら、『ブレーカー』は落ち、アパート中の全ての電気が使用できなくなるはずなのだ。
	    この部屋にあるものは因果律の歪みによって、僕たちが外に出ることができないような力が働いている。
		 だったら、部屋の外のものを使って外に出るしかないのだ。
	    十日前、ユカはこの部屋にやってきた。この部屋の扉は、『外からなら開く』のだ。だったら、『外からあけて貰えばいい』―――たったそれだけの、簡単なことだった。
		 この部屋の住人の誰か、あるいは管理人が、僕の部屋を訪れるだろう。なぜなら『迷惑をかけた張本人』である『この僕』が、謝りもせず、この部屋にこもったまま出てこないからだ。
	      *
	    僕はただ体のおもむくまま、部屋中の家電製品の電源を入れはじめた。テレビ、洗濯機、電気ストーブ、冷蔵庫、―――
		 まだだ。まだ足りない。
	    段ボールに入ったままだった電子レンジを取り出した。
		 そしてレンジを床に置き、そのプラグを、震える手で、コンセントに、近づける。
	   
		 バチッ―――
	   
		 電子レンジの電源が入れっぱなしだったことに気づいたときには、もう遅かった。
	    火花。
	    コンセントとプラグの金属との間に、ほんの小さな火花が起こったその瞬間、時間は止まった。
		 はじけたままの形で、写真のように停止した火花。
		 プラグを握ったまま塑像のように静止した僕。
	    ビデオを止めたかのように、部屋の中のすべての時間は、この瞬間に止まり、動いているものは、たったひとつ、僕の思考だけになった。
	   
		 ガスで満たされたこの部屋で、
	    火花が起こったら、―――
	   
		 ふと、
		 我に返ったその瞬間、
		 爆発。
	    溶岩のような高熱の爆風が、僕の体と、部屋と、ユカと、すべてを、
		 まるで、そんなものは、はじめから無かったかのように、消し去った。
	      *
	    喉の渇きと、吹き出す汗の不快感で、僕は目覚めた。
	    あわてて、僕は周りを見渡す。
		 ひとつも開封されていない段ボールの山―――その真ん中で、僕は体中の水分という水分が抜けきったかのような量の汗をかき、眠っていたのだ。
		 間違い無い。ここは、僕がまだ来たばかりの部屋だった。
		 僕は今日この部屋にやってきて、荷物も片づけず、夜になるまで眠っていたのだ。
	   
		 夢―――
		 ほんとうにいやな夢だった。
		 春からの新生活にうかれていた僕に対する、警告だったのかもしれない。僕は、あのできごとが夢であったことに感謝した。
	    もしユカがこの部屋にやってきたら、今日見た夢のことを教えてあげようと思う。
		 『因果律が歪んだ部屋』なんて、そんなおかしな夢を見たことを、笑いながら、話すんだ。
		 ユカが死んでしまったことを教えたら、一体ユカはどんな顔をするだろう?
		 僕は、全ての不安が消え去った、晴れ晴れした気持ちになった。
	   
		 それにしても、ずいぶんと汗をかいてしまった。僕は渇いた喉をうるおすために、台所に向かった。
	    蛇口を、ひねる。
	    「……おい、まさか」
	    水が、出ない。ひねってもひねっても、一滴たりとも水が出ない。限界まで回したとき、暗かった部屋が突然明るくなった。電気がついたのだ。蛇口を戻すと、部屋は再び暗くなった。
	    「嘘、だろ……」
	    気が、動転して、頭が、回らない。
		 絶望の中、確かめるように玄関のノブを回すと、水道は、そんな僕をあざ笑うかのように、激しい音を立てながら水を吐き出した。
	    ―――そうだ、ユカは……?
		 僕は部屋中をひっくり返して、ユカを探した。だが、風呂場にも、押入れにも、ユカの姿はなかった。
		 すこし安心して、押入れの壁を見ると―――そこには、僕が刻んだ、十の傷跡がのこっていた。
	    ―――夢じゃ、ない。
		 僕はここに来たばかりじゃなかったんだ。確かに僕はここにいたんだ。この部屋で十日間という時間を過ごし、ユカをうしない、そして、ガスが爆発して……。
	    僕は立っていることもできなくなって、その場にへたりこんだ。
		 水の流れ落ちる音が、異常に大きくきこえる。頭が、痛い……もう、だめだ……気が狂う―――
	    分からない、なにひとつ、分からない……。
	   
	    ガチャ。
	    突然、玄関の扉が、開く音。
	   
		「じゃーん! 差し入れ持ってきたぞーっ! って、うわ、真っ暗……。ちょっと、そんなとこで何やってんのよっ」
	   
		 聞き覚えのある声。
	    その温度は、カラダに染み付いているから。
	   
		「電気つけていい? スイッチどこ? うー、暗くてよく見えない……」
	   
		「ユカっ!」
		 そう叫ぶや否や、走った。
		 夢の中と同じダンボールにつまづき、転び、飛び込み、彼女の細い両足につかまる。
	   「うわっ……ちょ、ちょっと!?」
	    彼女はそれを支えられなくて、ドアを背に倒れ込んだ。
		 ふわっ、と。
		 よく知っている、やわらかい身体。あの痩せこけた体とは、違う。
	   「ご、ごめん」
		 慌てて起き上がり、ユカの手を引いて体を起こす。
	   「いたた。もう、突然一人暮らしするなんて言い出すから来てみれば……」
	    そうか……
		 『因果の連鎖』、『ループ』―――
	   「……ところで、さっきから凄い勢いで流してるあの水は何なの? なにかの儀式?」
	    因果の、くりかえし―――
	    僕は死んでいったユカの顔を思い出す。ユカは、生きていたんだ。まだ、やりなおせるんだ。
	   「どうしたのよ、さっきから変な顔しちゃって。なにか言いたいことでもあるの?」
		「あ、いや、その……」
	    次の瞬間、僕はもっとも大切なことを思い出した。
		 僕は、青ざめる。
	   「『その扉を閉めないで』、って言おうと思ったんだ」
	   
		 バタン。
		 扉の閉まる音が、僕の絶望の中に、繰り返し、繰り返し鳴り響いた。
	  
	    
	  因果の部屋 "the room of the loop" ――― 終