片割れ (2)
a pair

 自分はいったい何者なんだろう、と考えることがある。『あんたは閉じてる』と頭ごなしに言われたあのときのことを、気がつくと僕はよく思い出している。僕は本当に閉じているんだろうか。閉じている、とはどういう意味なんだろうか。開いている人間がいるんだろうか。そんなことは僕には分からない。それにほんとうは、あの言葉は彼女の感情から出たでまかせだったのかも知れない。
 僕は普通の人間だ。僕のような人間はどこにでもいる。おかしなところなんてひとつもない。楽しいときには笑うし、悲しいときには泣く。怒ることだってあるし、嬉しいときには素直に喜ぶ。他人を意識して自分を曲げ、友達の輪から外れないように努力はすることもあるけど、間違っていると思ったらちゃんと意見も言う。勉強だってそれなりにしているし、くだらない社会を憂いでありがちな非行に走ったりもしない。勉強にしろ運動にしろ、なにひとつ抜きん出たところはないけど、どんなことにも平均点以上はキープしている。そんな僕のどこが欠けているというんだろうか?

 そこまで考えたところで、僕は意識を戻す。あのときの言葉の真意を知りたいのなら、本人にきいてみるのが一番いいのかも知れない。しかもその本人は、今、目の前にいる。
「そんなに未練があるの?」
 じとっ、と僕をにらんで、貴子たかこは唐突に言った。僕には何のことかよくわからない。彼女はいつもそうだ。頭の中でいろいろ考えているくせに、その端だけを口にするので、意味が理解できないことが多い。半年間付き合ってみても、僕は彼女のことを掴みきれなかった。そして今も。きっと彼女のことをほんとうに理解している人間は少ないんじゃないかと思う。
「誰が、何に未練があるって?」
 僕は主語を明確にしてもらうように頼んでみる。僕が聞き返さなければ、彼女はそのまま会話を強引に繋げていくだろう。すると彼女は、
「あんたが、私に」
 などと真剣な顔で言うので、僕はいっそうわけがわからなくなる。
「どうしてそんなことになるの」
「だってあんたがずっと私を見たまま黙ってたじゃない。何か考えてたんでしょう。それって私のこと?」
 僕と貴子は今、テーブルを挟んで向かい合って座っている。テーブルにはアイスコーヒーが二つ。学校帰り、エアコンの効いた喫茶店、僕の学校とは違う制服を着た貴子
「違うよ」
 と、僕は言う。本当のことを言おうかと思ったけど、あのときの僕たちがそうであったように、ほんとうのことはなかなか相手に伝わってくれない。きっと僕がさっきまで考えていたような、思い出の中から愛とか恋の色を脱色した話でも、彼女はそういうふうには受け取ってはくれないだろう。
「彼女とはうまくいっているの?」
 また貴子は話を突然飛躍させるが、僕はもうそのくらいでは驚かない。『彼女とはうまくいっているの』。貴子は最近、ふたこと目にはこんなことを言う。駅前で有里香ありかと歩いているのを目撃されて以来、貴子は僕たちが付き合っていると信じてしまっている。
「彼女じゃないんだよ」
 何度おなじ事を言っても、どうも信じようとしない。貴子はつまらなさそうに、アイスコーヒーの入っていたグラスに残った氷を、ストローでくるくると回して、
「私と会ったりしたら駄目なんだよ」
 と言う。僕は返す言葉もない。第一、喫茶店に誘うのはいつも貴子の方なのだ。その言葉のあと、しばらく二人とも黙ってしまう。やがて貴子は氷をじっと見つめながら、
「いいんじゃない、あの子なら」とつぶやいた。すこし意外な言葉だった。
「有里香の、どこが?」
 貴子は有里香のことを一度遠くから見かけただけだ。その程度で彼女の何が気に入ったんだろう。そうね、と貴子は言う。
「女、ってとこかな」
「女……」
「あと、私じゃない、ってところ」
 やはり、この貴子という人間はどうしても掴みきれない。この子がどうして僕を好きだと言ったのか、どうして僕と別れたのか、あれからもう二年が経ったのに、未だに分からないままだ。

「この世界には、」
 そしてまた話の飛躍。もうすっかり慣れた彼女のペース。
「もうひとりの自分がいるの、知ってる?」
 話が飛ぶにしても、今度のそれはえらく長距離だった。もうひとりの自分? いったい何のことだろう?
「あんたは欠けているけど、」と、僕が悩んでいたそれを当たり前のように言って彼女は続ける。
「その欠けた部分はぜんぶ、もうひとりのあんたが持っているの」
「もうひとりの僕?」
「嘘じゃないの」
 彼女はやはり真剣な顔だった。しかし彼女の表情からはなにも読み取れない。貴子はあまり表情のバリエーションを持ち合わせていないのだ。
「なんで突然そんなことを?」
「新聞に書いてあった」
「へえ。新聞読むんだ」
 彼女は、うん、とうなずく。僕はなんとなく感心してしまった。世間の事なんてまるで無関心そうな素振りをしているのに。
「受験があるから。新聞くらい読まないと」
 そんなものか、と思っていると、彼女は隣の椅子に置いてあった鞄の中をごそごそとあさって、ノートと同じくらいのサイズに折りたたまれた新聞を取り出した。そして、はい、と僕に手渡す。その新聞は妙に古びていて、所々破れている。
「どうしたの? この新聞」
「拾った」
「拾った、って……」
「あんたに見せようと思って」

   *

 貴子の言う記事は三面にあった。その内容は、こうだ。


 以前から私は、世界のどこかに、もうひとりの自分がいるということを感じておりました。感じていた、というよりは、知っていたと言うべきなんでしょうか。日に日に私は、その存在がとても近くに感じるようになっていきました。なんと申したらいいのでしょう、今私がいる場所の裏側のようなところに、もうひとりの自分がいることに気づいたのです。ある日私がその気配を感じながら洗濯物を取り込んでいましたところ、さらに不思議なことがおこりました。空の色が変わったのです。その日は快晴で真っ青だった空が、菫〈すみれ〉のような紫色になったのです。ただでさえいろいろな私情で疲れておりましたので、私は錯覚を見ているのだと思いました。するとその紫色の空が、カメラのフラッシュのように、ピカ、と光を放ち、そのまま、すっと元の青色に戻っていったのです。私はしばらく呆然としていましたが、取り込んでいる途中の洗濯物のことを思い出して、それをすべて取り込みました。さすがに疲れが溜まっているようでしたので、私は昼寝をすることに決めました。座布団を枕にして和室に横になっていると、一時間くらい経ったでしょうか、玄関のチャイムが鳴りました。私はなかなか寝付けない体を起こして玄関のドアを開けました。そこにいた、保険会社の女性は、あろうことか私でした。私はその瞬間すべてを悟りました。以前私は、保険会社に勤めていましたが、結婚と同時に退職を選びました。あのとき私は、結婚退職をするかどうか、随分迷ったことを覚えています。この女性は、あのとき、会社を続けることを選択した、今ここにいるかも知れなかったもうひとりの私なのです。その女性もずいぶん驚いていたようですが、今では私たちはよいお友達として、主人のいない時に一緒にお茶を飲んだりしています。あのとき退職を迷ったなんてことは、主人には内緒にしておりますので。

 埼玉県 T・S 主婦(45)

   *

「どう思う?」
 いつになく真剣に、貴子は問う。だが僕はどう答えればいいのか分からない。
「どう、と言われてもね」
「そんなことがあると思う?」
 僕はそのくだらない記事のことについて考える。UFOや心霊スポットの記事と同じページに書かれているその記事を、どうやって信用しろと言うんだろう。貴子は真剣にこの記事のことを信じているのだろうか。
 僕が貴子の顔と新聞記事とをまじまじと見比べていると、貴子は急に立ち上がって、
「私帰らなきゃ」と、僕の持つ新聞をとりあげてさっさと出て行こうとする。僕はあわてて貴子を呼び止める。
「どうしてそんな物を?」
 僕の問いに、貴子は言葉を詰まらせた。だが貴子は何かを言おうとしている。伝えようとしている。僕にはそのことが分かる。
 僕は黙って、彼女の次の言葉を待つ。彼女はあまり喋るのが得意ではない。というよりも、コミュニケーション能力が不足しているのだ。表情を使って感情を表すことが苦手だし、彼女はいつだってうまく言葉を紡ぐことができない。
 欠けているのは僕だけじゃない。彼女もまた、欠けているのだ。
「あんたには、知っておいてほしかったの」
 僕に背を向けたまま、貴子は小さな声で呟いた。
 いつだってそうだ。貴子の考えていることを読み取るのは難しい。そもそも、他人の気持ちを知ることなんて、一体誰にできるのだろうか?