返ってきた答案には、軒並み無惨な点数が刻まれていた。
		 広岸は点数が悪いことよりも、むしろこれにより発生した補習やら追試やらにうんざりしていた。
		(はあ……こんなことなら少しくらいは勉強した方がよかったのか)
		 横から広岸の答案を覗き見て、夏雄は言った。
		「おーおー、こりゃまたえらい点数並べたもんだ。新記録じゃねえのか?」
		 夏雄はといえば、殆どの課目を赤点プラス二・三点というギリギリで回避し、一課目も赤点を出さないという離れ業を見せていた。
		 広岸にとって、夏雄のこういうところが気に食わないのだ。
		 極限まで力を抜いて危機を回避し、うまく生きる方法をこいつは知っているんだ、と広岸は思っていた。
	    *
	  「で、どーなのよ、その彼氏ってのは」
		 バニラシェイクのストローを口から離し、秋保が言うと、幸は恥ずかしそうに答えた。
		「や、やさしいよ、すごく。それに、かっこいいし」
		 すっ、と秋保の手が伸び、幸の目の前に差し出される。
		「プリクラ、あるんでしょ?」
		 まるで借金取りのような口ぶりに、幸は仕方なく自分の携帯を差し出した。
		 携帯の裏には、プリクラが貼ってあった。幸と、広岸が写っている。
		「ふ〜ん」
		 秋保は鑑定するような目でプリクラの中の広岸を睨み、
		「まあ、いいけどね」
		 と、よく分からないリアクションをして携帯をよこした。
	   つい最近秋保は、中学の時から付き合っていた彼氏と別れたばかりらしい。
		 その別れ話や愚痴を聞かせるために、幸は学校帰りのハンバーガーショップに(半強制的に)誘われたのだ。
		 秋保は、相当まいっているようだった。普段さばさばしていてクールに振舞っている彼女も、恋愛のことでこんな風になってしまうんだ、と幸は思った。
		 だからなるべく、広岸の話題は出したくはなかった。
		 幸にとって、他人の辛さは、自分の痛みよりも耐え難いものなのだ。
	   広岸。
		 生きていく不安を取り除いてくれる、ただひとりのひと。
		 幸は、広岸に告白した先週の日曜日の事を思い出した。
		 ―――私たち、付き合ってるのかな。
		 幸がそう言ったときの、あの広岸の顔がどうしても忘れることができなかった。
		 悲しみとも取れる、思いつめたような、あの顔。
	    *
	   休憩室、煙草の煙が染み付いた革のソファに寝転がり、広岸はぼうっと備え付けのテレビを見ていた。
		「お前、今日はどこだっけ?」
		 と、作業服に袖を通しながら夏雄は尋ねる。
		「俺は今日はもう上がりだよ。午前中だったからな。お前は今から?」
		 広岸が訊き返すと夏雄は嬉しそうに、
		「ああ。ナントカっつー病院の『電気設備の点検』だってよ」
		 と答えた。
		「マジ? アレ系ってすげえ楽じゃん」
		 広岸と夏雄は、揃って同じ、人材派遣のアルバイトをしていた。
		 派遣会社に自分達を登録し、空いている時間を端末に入力しておけば、コンピュータが勝手に仕事を割り当ててくれるのだ。
		「へへへ。じゃあ行ってきますよ。じゃーね、お疲れ様、広岸クン」
		 足取り軽く休憩室を出て行く夏雄の背中を、広岸は恨めしそうに睨んだ。
		(畜生、俺なんか滅茶苦茶疲れたっつーのに、なんでこいつだけ)
	   滅入ったとき、思い浮かぶのは、十子ではなく幸の顔だった。
		 こんなことは今までなかった。
	   その週の日曜日、昼から幸といつものホテルに入った。
		 広岸は、幸のやわらかな胸に顔を埋めた。眠たくなるような安心感。
		(今は、ここが俺の帰ってくるべき場所なのかもしれない)
		 目を瞑り、甘えるように幸の胸でじっとしている広岸を見て、幸は微笑んだ。
		「これじゃあ、どっちが年下なのか分かんないね」
		 幸はやさしく広岸の髪を撫でた。
	   六月に入り、二年生が修学旅行を終えると、とうとう雨の止まない日々が始まった。
		 だが幸と会う日だけは、何故か必ず、計ったように雨雲は退いていった。
		 思えば、雨の日に幸と会ったことは今まで一度も無かったし、広岸も心のどこかで、確信に近いものを感じていた。
		 幸は、晴れを呼ぶ、と。
		(もしくは、このはっきりしない連日の天気のように、やりきれなく腐っていた俺の心も―――)
	   その日の学校が終わる頃には、雨はもう霧雨になっていて、広岸は傘をささずに駅まで歩いた。
		 電車に乗り、携帯を見るとメールが入っていた。それが幸からのものであることは見るまでも無かった。
		『そうそう、この前言ってたアキホね、彼氏とヨリ戻ったんだって! よかったよ〜(T-T)』
		(アキホって、ええと、誰だったっけ―――)
		 幸の出す友人達の名前は多すぎて、誰が誰なのかよく覚えていない。
	   電車を下り、改札を抜け、広岸は踏切の前で電車が通り過ぎるのを待っていた。
		「広、岸……?」
		 カンカンと響く踏切と、通り過ぎる電車の轟音の中、その声は独立して広岸の耳に聴こえた。
		 聴き覚えのある、女の子の声。
		 だがそれは十子のものではないということも、同時に分かっていた。
		 振り向くと、そこにいたのは都奈実だった。
		「やっぱり、広岸だ」
		 照れくさそうに笑う都奈実。
		 都奈実は中学の同級生で、十子の親友でもある。広岸とは十子の繋がりで知り合い、まるで男友達のような関係だった。
		「うわ、でかっ」
		 広岸を見上げて、都奈実は言った。
		「昔はあたしの方が大きかったのにね」
		 背の高い女の子、というイメージが強かった都奈実も、今となっては広岸が見下ろす程になってしまった。
		(なんだろう、ひどくがっかりだ)
		 都奈実と並んで歩きながら、中学校の頃の話をした。あの時の同級生は、最近どこで見かけたとか、あいつはあんなに変わった、とか。
		(確かに俺は昔、都奈実の背を追い越したかった。だけどその一方で、都奈実には、俺より高くあって欲しかった。何も変わらないことを望むのは、いけないことだろうか)
		 それでも都奈実は、あの頃と変わってはいなかった。
		(そうだ、変わってしまったのは、俺だ。十子は―――どうなんだろう。今の十子を知りたい、どうしようもなく)
		 高校の制服に身を包んだ都奈実。
		 その口から懐かしい名前が次々と出てきたが、気を遣っているのか、十子の名前は一度も出てこなかった。