(あれ、ユキだ―――)
	   学校帰り、駅前の雑踏の中を通り過ぎていった、幸の幼馴染―――由紀。
	   すれ違った幸には気付かず、隣にいる、幸の知らない男に、馴れ馴れしく腕を絡め、楽しそうに。
	  (ユキ、また、違う男の人といる)
	   由紀のそういう姿を見るたびに、根拠の無い責任感を感じ、どうしようもなく辛くなる。
	   病院の隣同士のベッドで生を受けてから由紀とは、いつも一緒だった。
		 幼稚園、小学校、中学校と、登校する時も、下校する時も、遊ぶ時も、いつも、一緒。
		 住んでいるマンションまで隣同士なので、お互いの家に毎日のように、どっちがどっちの家の子供か分からないくらいに泊まり合った。
		 同じものを食べ、同じ布団で寝て、同じ部活に入り、同じひとに憧れ、同じ涙を流し。
		 同じ数だけ笑い、同じ数だけ泣き。
		 まるで双子みたいだね、と誰かが言ったとき、本当にそうなのかもしれない、と幸は思った。
	   中学三年、部活の最後の大会が終わり、幸たち三年生は引退した。
		 思えば三年間、部活しかしていなかった。放課後も、休日も、全部部活に費やしていた。
		 部活を辞めた後、由紀はすぐに処女を捨てた。
		 相手は、塾の先生だったか、よく覚えていないが、とにかく大人の人だった。
	   “すべてが一緒”にどこか違和感を持ち始めたのは、その頃だった。
		 秋になり、同じ高校に入るために、二人で勉強を始めた。“処女ではなくなった”由紀は、いつもと変わらなかった。
		 一緒に合格発表を見に行き、抱き合って喜んだときも、そこにいたのは、いつもの由紀だった。
		 それなのに。
		(なにかが、違う)
		 具体的に何が違うのかは、自分でもよく分からなかった。
	   春休みになり、かつて程ではないが、由紀は頻繁に幸の部屋にやってきた。
		 その話の中に出てきただけでも、由紀は、十人以上の男と、寝ていた。
		 それも、卒業してから高校に入学するまでの、短い間に。
		 由紀は、なにかに追われるように、次々と。
		「ねえ、どうしちゃったの、ユキ? なんでそんなことするの?」
		 心配になって、幸は訊いた。だが由紀は、にこりと曖昧に微笑むだけだった。
	   幸にとって由紀の存在は、自分の半身のようなものだった。
		 幼い頃からいつも一緒に過ごしていて、同じように行動し、考えるていることも、同じだと思っていた。
		 だから由紀とは通じ合えるし、お互い、真に分かり合える友達だと、幸は信じていた。
		 でも、ここ最近、由紀は変わってしまった。
		 わがままが増え、自分勝手な動きが目立つようになってきた。
		 かつての、自分の半身のような由紀ではなくなってしまった。
		 由紀の考えてることが、もう幸には、さっぱり分からなかった。
	   高校に入り、由紀の“悪い遊び”は、一人の男のもとに落ち着くことによって、ぴたりと収まった。
		 その男が―――夏雄だった。
		 夏雄の話をする時の表情で、今回は今までのそれとは違うことが、なんとなく幸には分かった。
		「やっと、見つけたんだ。あたしには、この人しかいない、って」
		 “夏雄”がどんな人物なのか、幸にはさっぱり見当がつかなかったが、幸は嬉しかった。
		 やっと、元通りになれる、と思った。
		 夏雄と付き合い始めてからの由紀は、もうすっかり大人しくなって、前よりもずっと女の子らしくなった。
		 幼いころから由紀を見ていた幸は、ああ、幸せなんだな、と喜んだ。
	   しかし由紀は、幸の元へは戻っては来なかった。
		 幸の部屋に泊まりに来ることも、幸のために時間を割くことも、殆どなくなった。
		 心の中に、得体の知れない虚ろな穴が、空いた。
		(でも、これでいいんだよね。これで由紀が幸せなら、私は文句を言うべきじゃないんだ)
		 耐えること。
		 生きてくうちにいつの間にか身に付けていた、方法。
		(私ひとりがこのちっぽけな寂しさを我慢すれば、それで丸く収まるんだから―――)
	   広岸と出会ったのは、四月の終わりごろだった。
	  「ごめん、幸。今日、昼から夏雄来るんだ……」
		 四月のある夜、幸は久しぶりに、由紀の部屋に泊まった。
		 ともに一晩を明かし、遅く起きた幸に、由紀は言ったのだ。ごめん、幸、と。
		(つまり、帰れ、ってこと?)
		 起き掛けに、もう使い慣れた由紀の家のシャワーを浴びて由紀の部屋に戻ると、さっきまで敷かれていた布団はまるきり片付けられていて、その代わりに、幸がいた場所には、見たことの無い男が座っていた。
		「あ、お邪魔してます」
		 男はひとなつこそうな、すこし照れた笑みを浮かべながら、幸に会釈をした。
		「……こんにちわ」
		 幸はぎこちなくお辞儀をした。
		 あなたが夏雄君ですか、とでも訊こうかと思ったが、もしそうでなかったときのためにそれはやめた。
		「ユキ、私そろそろ帰るね」
		 由紀の目を見ずに、幸は自分の鞄を持って部屋を後にしようとした。
		「あっ、ごめんね、またね」
		 由紀が決まりきったその台詞を言うと、幸は、本当は帰って欲しかったくせに、とすこし卑屈に思った。
		 しかし、男はそんな幸を引き止めて言った。
		「君が、幸ちゃん? 由紀から聞いてたよ。その……もうちょっと居てもらったら駄目かな。由紀の話とか、聞きたいし」
	   幸は自分の気持ちを押さえ、由紀の座っているベッドの脇に腰掛け、由紀と今まで過ごしてきた十五年間の思い出を、“楽しそうに”話した。
		 ただし、由紀の顔は、一度も見ずに。
		 その話の間じゅう、由紀は懐かしそうに相槌を打った。
		 すごく、居心地の悪い空間だと思った。今すぐにでも、逃げ出したいくらいに。
		(なんで、私がこんな事をしなきゃいけないの?)
		 自分と由紀との思い出が、この男にとられていくみたいで、気持ちが、悪い。
		 でも由紀の面子のためにも、由紀の良い友人でいなければいけなかった。
		 “由紀の言う”、“明るくて”、“ドジで”、“面白い”、友人を演じなければならなかった。
		 演じるのはもう、慣れてるはずなのに。
		 どうして、こんなにも辛い?
	   その男は結局、夏雄と名乗った。
		 気さくで、話しやすくて、媚びたところが無くて。
		 悲しくも、なんで由紀がこの男に惹かれたかは、すぐに理解できてしまった。
		 むしろ、もし由紀の彼氏ではなかったら、自分が好きになっていたかもしれない。
		 そして夏雄のそんなところを見つけるたびに、幸はつらくなった。
		 この男が、私からユキをとった。
		(でもこのひとは、私なんかよりも、多くのものを持っている。ユキが、こっちに行くのは、当たり前だ……)
	   ユキがだんだん、私から離れていく。私の知らないユキを、この男は沢山知っているんだ。
		 私とユキは、一心同体だったのに。
		 なのに、私達は、目に見えないくらいゆっくりと、そして確実にずれ始めている。
		 気が付けばユキは、すごく近いのに、もう私の元へは帰って来られない場所にいる。
		 今ではこんなふうに、一緒にいるのに、わけのわからない気を遣わなければならなくなってしまったのだ。
		 こんなはずでは、なかった。
		 一見通じ合っていても、決定的な何かが、違ってしまっている。
	   そうだ、この違和感は、前からあったんだ。
		 私達は最初から、同じ価値観を持っていたわけじゃなかったんだ。
		 ユキとは考え方が一緒だったんじゃなくて、私が、ユキの考え方に合わせていただけなんだ。
		 ユキの意見が、私の意見。ユキの価値観が、私の価値観。
		 なんで? いつのまにそうなったんだろう?
		 私たちが一緒に生まれた時、確かに私たちは同じだった。
		 でも私たちは違う人間だから、成長していくにつれ、二人に差が出始めた。違う自我を持っていることに、いつしか気付き始めたんだ。
		 そのことに見て見ぬ振りをして、その裂け目を埋め合わせようと、自分を制御していたのは、いつも私の方だった。
		 ユキと、いつまでも一緒でいたい。一緒でいなければならない。ユキだけが私の理解者であり、私の理解者はユキしかいない。そして、そうあるためにも。
		 “私とユキは一心同体”だったはずなのに、そんな意識のせいでいつの間にか、その実態は“私はユキのコピー”にすり替わってしまっていたんだ。
	   まるで、道化。
		 二人に厭な思いをさせないために、明るく振舞う私。
		 もう、たくさんだ。
		 いやだよ。
		 いつまでこんなことしなくちゃならないの?
	   三人で三十分ほど話した頃、不意に由紀の携帯が鳴ると、由紀は二人に断わり、鳴り続ける携帯を握って部屋の外に出て行った。
		 幸は、由紀が出ていくのを見やってから、思わずため息をついた。
		 そんな幸を、夏雄は見逃さなかった。
		「幸ちゃん。ごめんな、無理に引き止めちゃったみたいで」
		 幸は慌てて、首を横に振った。
		「う、ううん、大丈夫、そんなんじゃないよ」
		 幸の動揺の目をじっと見据えて、夏雄は言った。
		「もしかして由紀と、うまくいってなかった?」
		 幸は、ぎょっとして夏雄を見つめた。
		 なんで、そんなことまで分かるの?
		「相談に乗ってやりたいとこだけど、あいつ、嫉妬深いからなあ」
		 と、夏雄は苦い笑みを浮かべた。
		「もし迷惑じゃなかったら、俺の連れなんだけど、ひとり紹介させてもらってもいいかな。第三者に話すのって、結構楽になれるもんだぜ」
		 その言葉に、幸は、ピンときた。もう、厭なことしか思い浮かばない。
		「……ユキに、言われたんでしょ」
		 思わず言葉に詰まる、夏雄。
		「あいつは人の猿真似しかできない寂しいやつだから、男のひとりでも紹介してやれ、って、そう言われたんでしょ?」
		(ああ、なにを言ってるんだ、私―――)
		 何の罪も無い、この男を困らせて。
		 私ひとりが我慢すれば、それで済むのに。
		 私なんかのちっぽけな気持ちがどうなろうと、ユキと、夏雄君がうまくいってくれれば、それでいいはずなのに。
		 そう、私ひとりが堪えて、耐えて―――でも……。
	   でも、もう、限界だよ。
	   夏雄に紹介されたその男と中身の無いメールを数回交わしたのち、会いたい、と幸の方から呼び出した。
		 なんか、もうどうでもいい。
		 ユキの中に、私はいなくなった。じゃあ私は、どこにいるの?
		 私は、何のために生きてるの?
		 ユキとの一件でほころびかけた精神は、次々と崩れていく。
		 そのスピードで、なにかを壊したかった。例えば、私の、体。
		 目一杯の自虐心で、私は、その男に、体をあげた。
	   こんな形で、処女を捨てるなんて一体、誰が想像しただろうか。
		(あ―――)
		 生まれて初めて男に、服の上から胸を触られながら、幸は思った。
		(ユキも、こんな気持ちだったのかな)
		 目を、ぎゅっと閉じた。
		 今自分の体に起こっていること、これから自分の体で行われようとすることから、堪えるように。
		 下着だけの姿になった幸は、ベッドにそっと倒され、男は幸の顔を見下ろす。
		 まるで被害者のように、かたくなに閉じている幸のその瞼に、男は、小さくキスをした。
		 驚いた幸は、はっと目を開け、初めて目が合うと、男は言った。
		「そんな、誰でもいいみたいな顔するなよ。今ここにいるのは、俺と、お前なんだ」
		 そのひとことで、どこか体の外に追いやっていた自分の魂が、今ようやく、この体に戻ってきたような気がした。
		(今……初めて、このひとの顔を見たかもしれない)
	   その男の行為は、とても優しかった。
		 壊れ物を扱うかのように、丁寧に、痛くないように、気を遣ってくれているのが分かった。
		 自分は、ただ身を委ねているだけでいい。
		 息ができなくなるほど痛いのに、その優しさが、今の幸には、泣きたくなるほど心地よかった。
	  「ごめんな、痛かっただろ」
		 終わった後、ぼうっとしたまま男にくっついている幸に、男は何故か謝った。幸はあわてて、首を横に振った。
		(私、ちょっと分かった。たとえ行きずりでも、ひとの体って、こんなにあたたかいんだ―――)
	   逃げてるだけかもしれない。
		 それでも、いい。私はこのひとに、もう一度会ってみたいかもしれない、と思った。
		 広岸という名の、このひとに。
	   そしていつの間にか、幸は恋に落ちていた。
		 見失っていく自分を、広岸に抱かれている間は、取り戻せるような気がした。
	   それでも、ユキの中に自分はいなくなった、という事実は変わりは無かった。
		 今日の学校帰り、ユキがまた知らない男と街を歩いていた。
		 夏雄は? どうしたんだろう。別れたんだろうか。恐くて訊くことができなかった。
		 今のユキは、あのときのユキに戻りはじめている。あの、“悪い遊び”に没頭していたころの、ユキに。
		 ―――やっと、見つけたんだ。あたしには、この人しかいない、って。
		 あのとき、そう言っていたはずなのに。
		(ユキの、嘘つき……)
		 明日は、幸の十六歳の誕生日だった。
		 毎年、幸の家で開かれる誕生日パーティーには、由紀も誘っていた。
		 でも今年は、なんとなく声が掛けられなくて、由紀を呼ぶことはできなかった。
		(それでも、いいんだ。私は、ユキじゃない。もうユキがいなくても、私は生きていける。私にはもう、ヒロ君がいるんだから)
	   由紀のことを思い出し、幸の心は、疲れ果てていた。
		 母は遅くまで帰って来ず、雨の降りしきる音が、幸の孤独な夜をよりいっそう浮き上がらせていた。
		 寂しさを紛らわそうと広岸にメールを送ったが、一向に返ってくる様子は無い。
		(どうしたんだろう。また、バイトかな―――)
		 携帯を握り締めたまま枕に顔を埋めると、幸はいつの間にか眠りの中におちていった。