「ったく、幸を一体いくつだと思ってんだよ、あの親父は」
	   幸の義理の兄、になる予定の雅士は、隣に座ると見上げてしまうほどの大きなテディベアの腕を訝しげに弄りながら言った。
	  「いいじゃない、私は嬉しかったよ」
	   母親の恋人―――丘田が、マンションの扉から入りきらないほどの大きな包みを持ってきたときには、幸は驚いた。
	   結局その大きなプレゼントはドアを通ることが出来ず、包装を剥がされ、むりやりねじ込まれるようにして玄関に着陸した。
	   一家総出で行われたその間抜けな騒動を知ってか知らずか、当のぬいぐるみは何食わぬ顔をしていた。
	   母親と幸、それに丘田とその息子である雅士。いびつな一家四人で行われた、幸の誕生日パーティー。
		 テーブルには皿がいくつも並び、中央には大きなバースデーケーキが大袈裟に飾られていた。
		 壁やカーテンにはささやかな装飾と、“Happy Birthday SACHI!”の文字。
		 丘田を含めて、幸たちはこうした祝い事があるたびに、ホームパーティーの真似事をして大騒ぎするのが好きなのだ。
		 楽しいことを見逃さず、とことん楽しもう。それが幸たちの暗黙の家訓だった。
		 天国の父に悲しんでいる姿を見せないように、という隠された意味合いを、幸たちの誰もが心に秘めていた。
	   パーティーが終わった後、母がワインを取り出し、自分と丘田のグラスに注ぐと、幸と雅士はそれを自分達が退く合図のように受け取り、幸の部屋に移動した。
		「ねえ」
		 ふかふかのテディベアの腕の中に抱かれながら幸はなんとなく言った。
		「お母さんたち、結婚しないのかな」
		「さぁーなあー」
		 所在無くテレビの光をぼんやりと眺める雅士。
		「まあ、いろいろあるんだろ、大人には」
		 エアコンのかけすぎでちょっとした冷蔵庫のようになっているこの部屋で、くまの抱擁はとてもあたたかかった。
		 腕の中で、幸はテディベアに付ける名前を考えていた。
		 パパ。
		 うん、それがいいかもしれない。
		 それとも、ひろきし。
		 そう考えた時、幸は前回会ったときのセックスを思い出し、その記憶はくまと自分の温度によって生々しく蘇った。
		 自分を包むくまが、広岸に重なる。
		 自分が今ぬいぐるみではなく、広岸の腕に抱かれているような錯覚を覚え、気が付くと幸は赤面していた。
		(バカか、私は―――)
	   ふと、カレンダーを見る。
		(まだ、水曜日か)
		 幸はため息を深くついた。
	    *
	   七月十七日、幸の誕生日の夜を、広岸は自分の部屋で迎えた。
		(十子の誕生日も、確か七月だったな)
		 あのころから漠然と、贈り物を考えるのは苦手だった。
		 相手の身になって何かを考えることは、とても難しいことだった。そしてそれは今も変わらない。
		 十子の誕生日に、何かプレゼントをしたのを覚えている。
		 それが何だったかはうまく思い出せないが、あのときなりに散々考え抜いた挙句、中学生の小遣いで買える限界の、かつ貰っても何の役にも立たないような、どうしようもないものをあげてしまった気がする。
		 それでも十子はとても喜んでくれた。
		 しかし、たとえばトイレットペーパーの芯にリボンを巻いてプレゼントしたとしても、それが広岸からのものであるというだけで、同じように喜んでくれていただろう。
		 十子はそういう女だった。
	   幸は今ごろ、家族でパーティーをしている頃だろう。
		 なんだか無性に―――幸の声が聴きたくなった。
	  「もしもし」
		 最初に電話に出たのは、若い男の声だった。
		 広岸はそれが不意のことだったので思わず困惑した。
		「あ、あの、幸さんいらっしゃいますか」
		「すみません、幸は先ほどマグロ漁船でインド洋に旅立ちまして……」
		「は?」
		「次の春まで帰ってこないと言っておりましたので、伝言があれば伝えておきますが」
		「……」
		「嘘です。ちょっとまっててくだ―――」
		 ガツン、と受話器が床に落ちる大きな音が広岸の耳に飛び込み、思わず受話器から顔を遠ざけた。
		 電話の向こうからは、怪獣が大暴れしているような騒がしさが聴こえてくる。
		 むしろ、一方的に誰かが暴行を受けているような雰囲気だった。
		 聞いたことも無いような黄色い罵声が浴びせられていたのは、さっきの電話の男のようだった。
		 その大騒ぎがしばらく続くと、やがてぴたりと静かになった。
		「もしもし?」
		 幸の声だった。
		 それを聴いて広岸は少しほっとした。
		「雅兄、変なこと言ってなかった?」
		「いや……なんというか……。今のが“雅兄”?」
		 幸に、義理の兄がいることは聞いていた。
		 父親は幼い頃に他界した、ということも、今は母親の恋人が父親代わりだということも。
		「うん。そうだよ」
		 幸はすこし酔っているようだった。なんだか眠たそうな、とろとろの口調。
		「今そこにいるの?」
		 と、広岸は訊ねた。辛い背景にありながらも、楽しげな家族だな、と広岸は思った。
		「ううん、いないよ。さっき、追い出したからー。で、どうしたの?」
		「ああ、そうだった。誕生日、おめでとう」
		「えっ、あ、ありがとうー」
		 ふにゃ、と溶けてしまいそうな声だった。
		「それになんだか、声が聴きたくなったんだ」
		「へっ?」
		 それが意外だったらしく、ずいぶん間抜けな声をあげて、幸は少し沈黙した。
		「あー……なんだろう。すごく、うれしいよ」
		 ゆっくりと、幸は言った。とろとろだった。
	   その週の金曜、終業式のあと、期末試験の結果が返ってきた。
		 結局ノートを借りてまで勉強したのは初日だけで、あとは惰性で、一週間のテスト週間をやり過ごした。
		 まあそれでもなんとかなるだろう、と思っていたが、やはりその認識は甘かったらしく、その成績には“現実”の二文字がでかでかと勘亭流で刻まれているようだった。
		 赤点の課目が合計、四つ。夏休み中の補習は確定した。
		 中学時代に必死で勉強していたときの貯金はとっくに底をつき、もうどうにもならないところまで来ている。
		 幼少の頃からピアノを習いつづけ、漠然と、将来もこのままなんとなくピアノで生きていくのかな、などと思っていた。
		 しかし高校に入り、広岸の脳髄に徐々に刻まれていったのは、ピアノではなく、ただ、吐き気を催すような現実だった。
		 過ぎていく時間と、終わっていくものすべてが、広岸のピアノを弾く指に重くのしかかり、やがて、指は止まった。
		 傘の骨のように細く、それでいて筋肉質な、もう今となっては使い道のない十本の指を眺め、そろそろ身の振り方を考えなければいけないのか、と広岸は思った。
		(まあ、何はともあれこれで夏休みだ―――)
		 蝉の鳴く校門を出ると、すべての問題を後回しにして大きく背伸びをした。
		 雲ひとつない青空の中心で熱と光を照らす太陽を細目で睨むと、この先もなんとかなってくれるんじゃないか、と諦観にも似た期待をしてしまう自分がいた。
	   広岸による幸の誕生日祝いは、夏休みに入った最初の日にささやかに行われた。
		 いつものホテルの、いつもより少し高い部屋。休憩ではなく、二人でホテルに泊まるのはこの日が初めてだった。
		「親には何て?」
		 広岸が訊くと、
		「秋保の家に泊まりに行く、ってことになってる。秋保にもお願いしてあるから、アリバイは完璧だよ」
		 幸は答え、それがすこしわくわくしているように見えた。
		 ホテルの部屋は、なるほど広かった。
		 染み一つない絨毯、二人がけのソファ、壁にはネオンの装飾、使用感の全く感じられない、新品のようなふかふかのダブルベッド。
		 その目的のためだけに作られた、機能的で、非現実的な空間。
		「ね、座ろうよ」
		 幸に促され、広岸はソファに座った。
		「じゃーん」
		 幸が手にもっていたのは、二本の缶チューハイ。
		「冷蔵庫にあったんだ。今日は飲み物サービスなんだって」
		「お前、そんなの飲んで大丈夫?」
		「平気へーき。私、お酒は強いんだから」
	  「えーと、じゃあ、誕生日おめでとう」
		「うん、ありがとうー」
		 かんぱい、と缶を軽く当て合い、幸が勢いよく飲むのを見ると、広岸もすこしだけ口にした。
		 アルコールはあまり得意な方ではなかったが、口の中に広がった苦味とレモンの味が頭の上に昇っていき、なんだか不思議な気分になった。
		「あ、指輪、開けようよ」
		 思い出したように幸は言い、鞄の中から包装された小さな箱を取り出した。
		 広岸も持ってきた自分の分を取り出すと、二人は包装を解き、指輪を手にとった。
		「あれ? これって……」
		 違和感に気付いたのは、広岸だった。
		 その指輪は細く、明らかに広岸の指は入らない。
		「うん、私のは大きい。あはは、逆だね、これ」
		 しかし、広岸が指輪を幸に返そうとすると、幸は何かを思いついたようにそれを制止した。
		 そして自分の指を差し出して、
		「ねえ、それ、はめてよ」
		 と好奇の目で言った。
		 その小さく、やわらかな手を取り、すっ、と、薬指に指輪を通してやると、
		「ほら、こうすると、なんだか結婚式の指輪交換みたい」
		 などと言い、幸はすこし照れたように笑った。
	   幸が缶を飲み干すと、ソファの上で、服を着たまま抱き合った。
		「嬉しいな……私たち、一晩中いっしょにいられるんだよ。こんなこと、なかった」
		 確かにそうだった。
		 毎週末のたった数時間、こうしてホテルで会うだけの付き合い。それだけの恋人。
		 そんなものが、恋愛と呼べるのだろうか。ふとそう思ったが、深くは考えないことにした。
		 幸の唇は、すこしアルコールの味がした。
		「ヒロ君、高校卒業したら、どうするの?」
		 ベッドの中、裸の幸は、唐突にそんなことを言い出した。
		 それは広岸にとって、今もっとも振って欲しくない話題であり、またその言葉に悪気が全く無いのが、余計に辛かった。
		「……まだ考えてない」
		 と、なるべく心のうちが悟られないような口調で言った。
		 すると幸は、
		「ねえ、一人暮らししようよ。そしたら、私はずっとそこに泊まって、学校もそこから通うんだよ」
		 と、希望に満ちた目でそう言った。
		「私が、料理作ってあげる。家ではいつも私が作ってるから得意なんだよ。それで、洗濯も、掃除も、全部やってあげるんだ。ね、いい考えだと思わない?」
		「ああ……そうだな」
		「そうすれば……ずっと、一緒にいられるよ? こんなところに来なくても、毎日……会えるんだよ?」
		 幸の口調は、だんだんと悲しみの色を帯びたものになっていった。
		 いつのまにか、ぎゅっ、と広岸の腕にしがみつくようにして顔を隠していた。
		「どうして私たち、離れてるのかな? ねえ、ずっと一緒にいたいよ。夜が明けたら、また別々なんて、そんなの、寂しすぎるよ……」
		 涙声の幸にかける言葉は浮かばず、それを埋め合わせるようにキスをした。
		 肝心な言葉はいつだってそこには無く、広岸には、こうすることしか出来なかった。
		「泣くなよ。まだ夜は長いんだ」
		 幸の涙を指でぬぐってやると、その指にはめた指輪までもが泣いているように見えた。