あれから何度抱き合っただろうか。
   疲れ果てた広岸は、すでに隣で寝息を立てている。
 最近、なんとなく思うことがある。
  (ヒロ君は、本当は私のことをどう思ってるのかな―――)
   広岸は、寡黙なひとだ。
   幸は広岸の口から、“好き”という言葉を聞いたことがなかった。
   広岸は、自分のことをほとんど語ろうとしない。
   学校のこと、バイトのこと、小さい頃のこと。そして―――広岸が今までどんな恋愛をしてきたのか。
   考えれば考えるほど、私は広岸のことをあまりにも知らなさ過ぎる、と幸は思った。
 キスをしたり、抱き合ったりすることは、言葉以上に、相手の気持ちがよく分かる、と思う。
   広岸は、優しい。それだけはよく分かっていた。
   して欲しいことを、して欲しいだけしてくれる。幸が望んだことは、決して断わらない。だから、広岸の前ではついわがままになってしまうのだ。
   けど、何かが違う。
   ああ、気付かなければいいのになあ、などといつも思うのだが、頭がそれを拒んでも、体はそれを許してはくれない。
   昔から、勘がよく働く方だった。それは他人の顔色ばかり見て生きてきたからなのかもしれないが。
   すでに体が理解しかけている、あるひとつのこと。
   それは決定的なことではなく、もしかしたら、という漠然とした疑いのようなものでしかなかった。
   しかしそれを追求したりはしない。
   気付かない振り、見てみぬ振りをして、広岸の愛情の真意が例えどんなものであっても、それに甘えていたいのだ。
   だから広岸の過去は訊かない。幸はそう決意していた。
   なにもこの関係を自らの手で壊すような真似をすることはない。
   例えば愛情とは別の理由で私の存在を必要としていても、だ。
   過去がどうであれ、今、このぬくもりがある。
   広岸が自分をどんな風に思っていても、自分は広岸のことがたまらなく好きだ。
   今、広岸のそばにいられること。
   それだけでいい。
   多くは望まない。それだけで、いい。
 起こさないように枕もとの有線放送のボリュームを少しだけ捻ると、外国のバラードが流れ始めた。
   広岸の寝顔を見つめる。
   広岸は天井を仰ぎ、右手の甲を額に当て、山に折った足を組む、という不思議な寝相で裸の胸を小さく上下させている。
   その様子がおかしくて、そして愛しくて、広岸が眠りに就いたそのときからずっと観察していた。
   暗がりのなか控えめに光るデジタル時計は、深夜の四時を回っていることを示している。
  「……」
   広岸がなにかを呟いて寝返りを打つと、こちらの方を向いた。
   閉じた目がこちらを見つめているようで、起こしてしまったのかと思った。
   突然広岸が足をぼりぼり、と掻いた。
   そのあまりの無防備さに、幸は思わず顔がほころんだ。
   いつも壁のような何かで心を頑丈にガードしているような広岸が、今はこんなにも無防備な姿をさらしている。
   その姿に、幸はなんだかたまらなくなって、隙だらけの首元にキスをした。
  「ん……」
   眉を、ぴく、と動かして反応する広岸が妙にかわいくて、幸は体中に何度もキスをする。
  「……」
   体中を一周して、再び首元に唇を這わせたとき、広岸はまた何かを呟いた。
   よく聞き取れなかったが、ただの寝息ではなく、確実に何かを言っているのが分かった。
   息を潜め、もう一度呟くのを待つ。
   広岸が口を開きかけたのを見て、幸は耳を澄ませた。
「……とお……こ……」
 思考が、停止していく。
   頭のうしろのほうを何かで刺されたような感覚。
   喉がからからに渇いていき、息をすることもままならい。
   何て言ったのか、すぐには理解できなかった。
   “とおこ”がひとの名前であることを認識するのに、ずいぶんと時間がかかった。その間、視界はぼやけ、身動きはとれなかった。
  (他の……女のひとの夢を見てるの? ヒロ君はそのひとの事が好きなの? じゃあ……私は?)
   思考が暗転し、次々と崩れていく。何とか堪えようとするが、その修復が追いつかない。
 私は、なんなの?
   私ひとり、空回りしてたっていうの?
   バカみたいだ。
   ああ、私なんか本当は、相手にもされてないんだ。
   私なんかじゃヒロ君の中に入り込むことは一生あがいたって無理だし、私なんかじゃきっとヒロ君のための何にもなれない。
 いつかは、こんな日が来ると思っていた。漠然とした、霧のようにかすかな意識でしかなかったが。
   違う、分かっていたつもりでいただけだ。本当は心のどこかで、ヒロ君が私のことを必要としているんじゃないかという、空想のような淡い期待を持ち続けていたのだ。
   私たちは、愛し合っている、と。
   ずっと一緒にいられるのだ、と。
   知らなければ、そう思い続けることができたのに。
   知らなければ、ずっと幸せなままでいられたのに。
   裏切られたという気持ちは生まれず、ただ、自惚れていた自分へのくやしさが湧き出してくる。
 頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
   囁きのような無数の思考が、脳の中で弾けては消えていく。
   もうすでに自分でも何を考えているのか、何を悩んでいるのかが分からなくなっていた。
   定まらない焦点のまま、幸はベッドに寝そべった。裸の広岸の眠る、その隣へ。
   混沌のようにどろどろとした騒がしい頭の中のまま、広岸の寝顔をぼんやりと見つめる。
   すると広岸はその視線を感じたかのようにもう一度寝返りを打ち、幸に背中を向けてしまった。
   幸は広岸に寄り添ったが、広岸との間に見えない何かがあるような気がして、その肌に触れることは出来なかった。
  *
 いつの間にか眠っていたらしく、広岸は重い目を開けると、カーテンの外から光がこぼれているのが見えた。
   いつもの朝と違う光景。それを見て、ここが自分の家ではなくホテルの一室であることを思い出した。
   ふと横を見ると、寄り添うようにあたたかい何かが横たわっていた。幸だった。
   その寝顔を見て、広岸は驚いた。その目元には、まだ乾かない涙の筋があったのだ。
 前の晩、幸は泣いていた。
   ずっと一緒にいたい、と言い、広岸の腕にしがみついて。
   あのあと、幸は何度も広岸の体を求めた。
   繋がることで寂しさを紛らわせようとしていたのか、あるいは、それ以上の何かを欲していたのか―――。
   ただ、広岸はそれに応えてやるくらいしか、してやれることは無かった。
 いくらその外見が大人びていても幸は、十六になったばかりの少女だった。
   こうして幼い寝顔を見ると、改めてそのことを実感させられる。
   幸に対して何かを与えてやりたい、といつも思っている。
   だがその度に、自分の中には何もないことを実感させられるだけだった。
   いつだって、作り物のような優しさを施すことしか出来ない。
 広岸は今、大きな罪悪感に駆られていた。その理由は二つあった。
   一つは、幸を泣かせてしまったこと。
   自分の無能さ故に、幸は苦しみ、悲しんでいるのだと、広岸は思った。
   そしてもう一つは―――幸と一つのベッドで、見てはならない夢を見てしまったことだった。
 今までの幸との思い出を過ごす夢。いけなかったのは、すべて幸が十子になっていた、という事だ。
   夢の中の十子と、何度も抱き合い、何度もしあわせなセックスをした。
 自分を自分で殺してやりたい、と思った。
   なんて俺はどうしようもない奴なんだ。
   今、俺には幸がいる。それで十分じゃないか。
   何にもなくなってしまったこんな俺を、それでも好きだといってくれる幸。これ以上、何を望むと言うのだ。
   十子はすでに、過去だ。あの時いくら十子を愛したとしても、それはもう過去のことだ。
   忘れよう。いや、忘れなければならない。
   もう二度と、こんなことがあってはならないのだ。
 広岸は裸のまま風呂場へ行き、栓を捻るとあたたかいシャワーが雨のように頭から降り注いだ。
   しばらくシャワーを浴び、体を拭いてベッドに戻ると、幸はすでに起き、服を着ているところだった。
   その目にはもう、涙の跡は無い。
   幸はいつもの笑顔で、
  「あ、おはよ、ヒロ君」
   と言い、それが余りにも普段どおりだったので少々面食らったが、広岸もおはよう、とぎこちなく返した。
 気が付くと、チェックアウトの時間の十時が近づいていた。
  「そろそろ、出ようか」
   広岸が言うと、幸はこくり、と頷いた。
   部屋を出るとき、その肩が少し寂しそうに見えたので手を回そうとすると、幸はびくっと身をすくませた。
  「えっ……?」
   意外な反応に、広岸は驚いて立ち止まった。
   幸は慌てて笑顔を作り、
  「あっ、ううん、えーとっ、その、なんでもないよ。あははっ」
   と言ったが、広岸にはその仕草が、何かを隠していることを示唆しているような気がした。
 チェックアウトを済ませてホテルを出、駅まで歩いている間、幸はとにかくよく喋った。
   取り留めの無い話ばかり、溢れるように、次々と。
   広岸は幸のそんな姿が、不自然に見えて仕方がなかった。別れ際の幸はいつも、寂しそうに黙ってしまう事が多いのだ。
   駅に着き、二人がいつも別れる場所で足を止めた時、幸が急に神妙になるので広岸はどきっとした。
   目を伏せ、口をつぐんでいる。
   それは見た事も無い表情だった。
  「……これから夏休みだもんな。いつだって会えるさ」
   他の言葉が思いつかず広岸がそう言うと、小さく、うん、と頷き、幸はバスターミナルに向かった。
   別れ際、幸はじゃあね、と手を振ったが、一度も広岸の方を見ようとはしなかった。