赤鬼青鬼 5

相談

 こないだの、最初の撮影の日、別れ際に私は旭川さんから三千円をもらった。「本当は今日の分の給料は出ないんだけど、君、頑張ってくれたから、交通費としてこれ貰っといてよ」と、ルイ・ヴィトンの財布から三千円を抜き出して私に握らせた。私はとても良い気分になった。旭川さんってすごくいい人! もしかして私に気があるのかな……。なんて、いやいやまさかね。
 私は最初の撮影から一週間後、もう一度旭川さんに呼び出された。場所はあのスターバックス。「事務所に君の名前を登録するから、今日はその手続きをするね」と、書類が机の上に置かれた。携帯電話の契約書と同じような、三枚重ねで、一枚目に書いた内容が二枚目と三枚目にカーボンコピーされるタイプの紙だった。私はそれに住所とか名前とかを記入した。筆圧が弱くてちょっと苦労したけど。それで裏面の約款に目を通してから、三枚ともにはんこを押した。「書けましたー」「じゃあさ、悪いんだけど、仮登録料として、五千円いただけるかな。まあこれ、手続き上のもんなんだけど。ちなみに、登録解除するとまた返金されるから」私は五千円を旭川さんに払った。「どうもね。あ、次の撮影がさっそく来週の土曜日にあるけど、出られる? 今度は他の人と一緒に撮るやつだけど。今度はちゃんと給料出るよ」「出ます出ます!」
 次の撮影は栄だった。地下鉄の一番出口で待ち合わせて、旭川さんと合流する。するとそこにはもうひとり男の子がいた。私と同じくらいの歳だと思う。片原修次君。背は高くて痩せてて、肌はちょっと日焼けしている。エンジ色のキャップから、坊主頭がのぞいてて、耳と口には小さなリングピアス。これが噂に聞くB系ってやつかー……格好いいけどちょっと恐い感じかな。旭川さんは相変わらず、何らかのブランド物っぽい派手なスーツに、今日はシャネルのサングラスをしていた。もうみんなおしゃれなんだから……。「じゃあ早速、撮っていくよー」私と片原君は肩がくっつくくらいの距離に並ばされて、人混みの中で、旭川さんは私たちにハンディを回し始めた。「君ら今から恋人同士ね」「えっ?」私と片原君は目を合わせる。
 「じゃあオアシスまで手を繋いで歩いて貰おうか」なんて旭川さんは言い出した。えー、初対面の男の子と手を。いやーん、ってもう繋いでるし。片原君、行動が素速い。やるなあ。片原君の手は男の子にしてはあんまり大きくなくって、ひんやりとしていた。私たちは栄の町中を、手を繋いで歩く。これって、ほんとの恋人同士みたいじゃない? ねえ、周りから見たら私たち、恋人同士に見えるかしら……ってそんなわけはない。なぜなら普通のカップルのデートには、前方からハンディカメラを覗きながらバックして歩いていく中年なんてついてこない。『あいのり』とかに出てくる恋人たちもこんな気分なんだろうか。カメラついてくんなよ! って。テレビって恐い。
 私の才能はここでも発揮された。私と片原君は、オアシスの空中回廊で、思いつく限りの組み体操を片っ端から行った。組み体操に必要なのは、体の柔軟性とバランス感覚、そして発想力だ。そして私にはその全ての能力があった。足は遅くても、歌は下手でも、私は誰よりも面白い、誰も見たことのない組み体操を思いつくことが出来る。私と片原君が、『φ字バランス・グラウンドゼロ・カスタム』を華麗に決めているところを、旭川さんが爆笑しながらカメラを向けて、私たちの周りをぐるぐる回った。「すごい。かつてない画が撮れてる。マジ凄い」旭川さん大はしゃぎ。片原君は最初は困った顔をしていたけど、段々その気になってきて、私たち三人はちょっと収拾がつかないくらいのハイテンションに。ものすごい通行人の邪魔、どころか、気違い寸前の大暴れに、最終的にはお酒も加わって、撮影はさらにわけの分かんないことになったけど、その日の給料七千円を貰って良い気分になった。

 私の活躍を旭川さんは高く評価した。再び名古屋駅のスターバックスに呼び出された私。私を能力を見込んだ旭川さんが私に新たなステップを紹介する。「ねえ、これは君のチャンスなんだ。テレビや雑誌に出られるかもしれない。勿論、努力は必要だけどね。もし、興味があるんだったら、うちの事務所でプロとしてやってみないか。出演料は、ぐんとあがる。学校に行きながらでもいい。無理強いはしないけど、とにかく考えておいてくれないか。僕の事務所と君の将来のために」私の将来。

 ある昼休み、一部始終を唯子ちゃんに話した。
「あーカラオケ? のビデオかー。あっはっは。わけの分かんないことしてるねーあんたも。あたしの知らないうちに」机に立てた鏡で睫毛を直しながら、唯子ちゃんは言った。「確かに、はは、変だもんねーカラオケのアレって。こないだ見たやつなんか超ウケたし」
「どんなのだった?」
「んとさー、なんか廃工場みたいなとこでさー、家具壊してんの。男がさー、もう凄い怒って、でかいハンマーみたいの持って暴れて、タンス叩いてんの。ははは。時々、昔の恋人? みたいな回想シーンが入ったりするんだけどさあ、結局やってることはタンス壊して、定期入れの恋人の写真を見つめて、それのずっと繰り返し。はは、意味分からんくない? なんかスローモーションとかちょっと演出入っててさ、マジで、ありゃシュールだった。シュール・レアリスムだった」
 私も唯子ちゃんにつられて笑う。
「あんたああいうのさー、向いてると思うよ」言って、ぷっ、と吹き出す唯子ちゃん。
「唯子ちゃんもそう思う?」
「思う思う!」はははは。唯子ちゃん不意に爆笑。教室の視線が一瞬だけ集まった。
「そっか……」

 学校のトイレで私は私の顔を見る。うん、下手な化粧。うちの学校は割とこういうのに甘いとはいえ、唯子ちゃんくらいバッチリやっちゃうと、先生達もさすがに黙ってないから、こんなビビり気味の化粧になってしまうんだけど。スカート丈だって髪色だってビビりで半端。やらない方がマシって感じで。でもやった方が何かに対してはマシなんだと思う、けど、その何かってのはなんだろう? それはたぶん主体性の問題なんだろうな。
 個性とか自由とか。私たちはそういうのを主張するけど、同時に連帯感も重視する。個性的でなければならないけど、みんなと一緒でなければならない。それって矛盾してるよね……。でもその気持ちは痛いほど分かる。私だってみんなと一緒じゃないといやだ。同じ考え方。同じ価値観。それって大切なことだと思う。ハバにされるのは恐いから。誰も声に出しては言わないけど、みんなそれを思ってる。ハバにされるのは恐い。だけど自分を失うのも嫌だ。だから、主体性と社会性の真ん中あたりで妥協する。それが普通。スカート丈についてもそれが言える。かわいく見えて、なおかつ、先生に目を付けられない長さにする。加えて重要なのは、それがみんなとそんなに違わない丈であること。ここにようやく私たちの主体性が介入する。みんなよりどれだけ短いか、っていう、小さな小さなミリ単位のパラメータ。

 私はもう一度鏡を見る。そんなに不細工ではないと自分では思う、けど、決して美人じゃないなあ……。というのは、私は幼い頃から『あの』お姉ちゃんを見て育ってきたからで、とてもじゃないけどこの程度の顔が美人だなんて思えない。
 私には三つ離れたお姉ちゃんがいる。お姉ちゃんは私と違って小さい頃から評判の美人だった。お姉ちゃんの外見については、『美人』の他に言いようがない。百人にきけば百人が、美人だと答える。絶対。その辺にいるちょっと綺麗なくらいの女の人とはわけが違う、文句の付けようがない、完璧なまでに美しい人。私の自慢のお姉ちゃん。誰よりも頭がよく、誰よりも美しい。胸だって大きい。大人っぽくて、色っぽくて、格好良くて、優しくて、……私にない物を全て持っているお姉ちゃん。お姉ちゃんは高校を出てから上京して、今じゃ現役東大生モデル。お姉ちゃんの美しさを世間は放っておかなかったのだ。

「あんたまさかマジに考えてんの?」帰り際の夕方、教室で唯子ちゃんは言った。
「え、なに?」
「その、事務所がどうとかってやつ」
「うーん……」
「プロになるとどうなんの?」
「学校は今まで通りなんだけどお……仕事の回数が増えて、給料が増えて……」
「給料? いくらになるの?」
「一日の撮影で、二万円だって」
「二万?」唯子ちゃんは少し驚く。驚くよね、そりゃあ……。普通のバイトなら一日頑張ったって、一万円ももらえない。
「ねえ、唯子ちゃん!」私は唯子ちゃんの両腕を掴む。
「な、なに」
「唯子ちゃんだったらどうする? やる?」
「は、ははは。そりゃあ、やんないって、そんなん」
「…………」私は唯子ちゃんから手を離す。
「あんたの話聞いた感じだとさー、なんか怪しいっぽくない? その会社、っていうかその人がさ」
「そうかなー……」私はそんなこと全然思わなかった。旭川さんは優しくていい人なのだ。それに格好いいし……。私だけじゃなくって、片原君も働いているのだ。私だけだったら騙されてるかもしれないけど、他の人もいるから、多分大丈夫だと思うけど……。
「もう、やりたいんだったらやればいいでしょうが。ってかあんた、ホントにその分け分かんない仕事したいの?」
「分け分かんなくないもん……」
「ちがうって」唯子ちゃんはすこし苛立った感じで言う。「やりたいかやりたくないかだって。よく考えてみ?」
 うう……。なんか唯子ちゃんの言い方がきつくなってきた。なんか悲しいよ。こんなことなら、こんな話するんじゃなかった。私がはっきりしないから唯子ちゃんは苛々することになるのだ。
「やりたかったら、やれ。やりたくなかったら、やめとけ。そんくらいのことしか言えない、あたしは」唯子ちゃんは続ける。「あんたはさ、ただ、あたしの同意がほしいだけでしょ。あたしにやれって言って欲しいだけっしょ。そーいうのやめろって、鬱陶しいから」
 ひどい。と私は思った。だけど唯子ちゃんの言葉はもっとひどくなる。
「……ふっ。てか、鏡見て決めたら? あんたがあんたのお姉さんみたいな顔だったらよかったのにね。なんて、はは。ごめんごめん冗談。じゃあね、帰るわ」
 言うだけ言って、唯子ちゃんは先にさっさと帰ってしまう。私はその晩、鏡を見ることは出来ずに、枕を抱いて泣いて寝た。でも朝になれば泣いた事さえ忘れる私の性格。